Facebookコメントでも書きましたが、こちらのブログでも。
日大アメフトの一件について強く感じたこと。
こんなことを書くと批判もたくさんいただくかもしれないけれど、個人的には、昨日の前監督とコーチの記者会見の「発言内容」自体は、大きな違和感を感じるものではなかった。
むしろ、強い不安を覚えたのは、メディアが「一つの結論」に持っていこうと躍起になる姿勢。
会見では、確かに、曖昧な点も、疑問に感じる点もあった。
けれど、彼らの昨日の「発言」そのものが根本的に誠意を欠いているとか、逃げようとしているとか、選手を裏切っているとか、そのようには感じなかった。
謝罪と反省、悔恨の弁を交えながら、本心を可能な限り伝えようと努力しているようには感じた。
少なくとも、メディアで「完全に人格崩壊した卑怯者」と叩かれるほどひどい内容ではなかったと思う。
能力がありながら最大限の力を発揮しているように「見えない」、性格的にも優しくて闘争心が「前面に現れにくい(ように外から見える)」、有望選手。
彼に「相手を潰す気でやれ、いいな」という指示を出したのは明らかに行き過ぎだが、「ルールを破ってでも怪我をさせろ」という意図ではなかった、という言葉に嘘はないと感じた。
選手との会話の流れで感情的になり、「もし相手が怪我したら得じゃないか」と発言したのも、明らかに行き過ぎ。しかし、それも文面通り「怪我をさせろよ」という指示ではなかったと思う。
そもそも、日本一を取ったチームの指導者が、
「反則を犯してでも意図的に相手を怪我させろ」という指示を本気で出すと思えない。
だから、「解釈、とり方の違い」というコメント自体が(非常に残念ではあるけれど)、絶対に間違っている、とは言えない。
そういう意味で、学生も、指導者も、両者とも真実を話している気がした。
選手を精神的に追い詰めた罪はあまりに大きいが、
「まさかあのようなプレーにつながるとは予想できなかった」
という指導者たちにも嘘はないと感じる。
こういう「ずれ」は、会社組織でも起こりうる。
起こりうるという前提で「問題の本質」に迫らないと、根本的な課題が浮かび上がらない。
週刊文春の「14分テープ」についても、
「あの時は選手をかばうことが目的で、(強気に)正当化する発言をしてしまった」という趣旨の前監督の発言自体は嘘ではないと感じる。(ことの重大さに気づけていない、前監督の傲慢な発言のしかたは大問題だが)
もちろん、「日大組織」の問題はものすごく大きい。
結果起きてしまったあのプレーの酷さは言うに及ばず、
前監督とコーチの指導者としての品格のなさ、過激すぎる物言い、選手との信頼関係のなさ、精神的に追い詰められる選手の心理に気づけなかった鈍感さ、指導者の暴走を抑制できなかった組織のお粗末さ、色々問題はある。全く嘆かわしい。
しかし、それでも、学生だけでなく、コーチや前監督のコメントも「公正に」聞く姿勢を持たないと、本質的に一体何が問題だったのか、という核心が見えなくなる。
「一方を徹底して叩きたがる」このマスコミや世の中の風潮が本当に怖い。昨日も、明らかに、前監督とコーチの回答を無視して、「自分たちが書きたい方向で」誘導尋問する記者があまりに多かった。おそらく「失言」「発言の矛盾」が欲しくてたまらないのだろう。それが視聴率を上げ、雑誌発行部数をあげるから。
だどすれば、彼らのそういった姿勢もジャーナリズムの「ルール違反」と言えないだろうか。
そして確かに、あの広報のおじさんの態度は間違いなくひどかった。広報であるなら、世の中のこの会見への見方を的確に察知し、「立ち居振る舞い」「ものの言い方」「トーン」
にもっと慎重に留意すべきだった。
組織の現状を客観的に見られない、まさにいまの日大組織を象徴するかのような、司会者の言動のお粗末さだった。
けれど、それさえあえて「公正に」見ようと努力すれば、
記者やレポーターがあまりにルールを無視した質問を繰り返したのも事実。
2時間近く会見をやって、この会見の「目的」は一体何だったのか、記者たちはいったい何を聞き出したかったのか、と問いたい。
どちらか一方が100%悪い、とする風潮はメディアに扇動された「集団思考」だ。それは、世界では「ポピュリズム」政治の台頭という形でも問題になっている。
この日大アメフトの件に限らず、昨今の「悪者叩き」と「マスメディア(特に民放)の一方的報道」は、本当に怖い風潮。
社会の問題も、組織の問題も、
真因を浮き彫りにして解決したいと思うなら、
「公正」に見て、「冷静」に話し合う土壌がないといけない。
自戒の念も込めて、そんなことを感じた。
加害選手も、まだ若いコーチにも、未来がある。
反省と悔恨の日々を経て、また新しいスタイルでフットボールという素晴らしいスポーツに関わって欲しい。